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羊蹄山

二重構造のコニーデ

「蝦夷富士」とも呼ばれる羊蹄山は、その山容から富士山にもたとえられ、古地図にも登場するほど和人の関心をひきつけてきた山です。富士山と言えばコニーデ型成層火山の代表例ですが、単一の山ではなく、現在見る富士山の下に、古富士、小御岳火山、愛鷹山などが潜んでいることが知られています。これと同じことが、羊蹄山にも言えます。羊蹄山の生成史は、「古羊蹄山」の形成から始まります。これは、海抜1,000m級の火山です。その上に現在見る「本体火山」が作られるのですが、この噴火は三期に及びます。第一期でほぼ現在の大部分が形成されますが、第二期には特に西側に大量の溶岩を噴出しますので、西側に大きく膨らんだような形となります。羊蹄山が見る方向によっていろいろな山容と表情を見せるのは、そのためです。また、三期にわたる複雑な噴火履歴を持つことから、羊蹄山にはいくつかの寄生火山があります。「山頂部の北山」「半月湖(爆裂火口および溶岩円頂丘)」「650m山(溶岩円頂丘)」「502m山(溶岩円頂丘)」「富士見火山(砕屑丘)」などです。特に半月湖は、その神秘的な景観から観光資源としても有名です。同じ山麓といっても、それぞれの地域の人は、自分の場所から眺める個性的な羊蹄山を愛し自慢します。噴火の歴史は、山の姿に多様性を与えただけでなく、温泉や湧水の分布と湧出量、地質や土壌の違いに起因する農地など土地利用の多様性にも大きな影響を与えているのです。山麓の7町村が、共通性に包まれながらも多様な個性に彩られているのは、羊蹄山の複雑な成り立ちと多様な生態に起因するからかもしれません。

氷河期の生き残りが生息する独立峰の豊かな生態系

羊蹄山は数度の噴火で標高1898mまで“成長”した独立峰で、頂上付近に高山帯を有することが大きな特徴です。道内で1500m以上の高山帯をもつ最も南に位置する山であることから、南限あるいは道内で最も南の分布産地となる昆虫が多い山です。そこには、「氷河期の生き残り」と言われる昆虫も含まれ、ダイセツオサムシはその代表例です。その名のとおり、羊蹄山の頂上部以外では、道内でも大雪山の高山帯だけに生息する昆虫です。ダイセツオサムシ以外にも、1991(平成3)年の調査では5種類の高山蛾が発見されていますが、狭い頂上部分とはいえこれだけ希少な種が発見されたことは、羊蹄山の生態系の豊かさに裏打ちされた結果といえます。ちなみに、羊蹄山頂上部は、環境省による自然度指標でもっとも自然度が高い(=10)場所のひとつとなっています。さらに、中腹から広く広がる裾野に至るまで全山で370余種に及ぶ植物が見られ、その中でも90種を越える高山植物を含む高山植物帯は、1921(大正10)年に国の天然記念物に指定されています。また、独立峰であるがゆえに生物の垂直分布が比較的明瞭であることも、大きな特徴です。昆虫や動物の生息環境である植生は、麓から山頂まで、広葉樹林帯、針広混交林帯、ダケカンバ帯、ハイマツ帯、高山帯(お花畑・風衝地・ガレ場、雪田)に区分され、さまざまな生物の生息環境を豊かなものにしています。馴染みの野生動物も、この生息環境に適応しています。

山名の由来

「羊蹄山」の 山名 ほど、古来より複雑な経緯をたどってきた山は珍しいかもしれません。その数奇な物語は、『日本書紀』に端を発します。同書によると、斉明天皇の5年(659)に阿倍臣(比羅夫)が百八十艘の軍船を率いて北征した際、二人の蝦夷から「後方羊蹄をもって政所とすべし」と進言があり、そこに郡領を置いて帰った、と記されています。同書は、「後方羊蹄」を「しりべし」と読ませています。この“由緒ある”記述に、その後、山名の歴史は大きく左右されて今日に至るのです。「後方」は「しりへ」、「羊蹄」は「し」と読ませていますが、これも奇異なことです。植物学者の牧野富太郎は、「羊蹄」とは「ギシギシ」という草の漢名で、それを日本では単に「シ」と言うのでこのような用字になったと著しています。この用字は、万葉集や源氏物語にもあるそうです。つまり、物語の端緒で意味があったのは、「しりべし」という表音であって、「後方羊蹄」という表意ではなかったのです。これが、どうやらその後の複雑な物語の、因果の始まりとなっているようです。

尻別川の山

ところで、「しりべし」は、元来「尻別川」の名であったのではないか、と言われています。尻別川の地を『日本書紀』の「後方羊蹄」と考えたのは、新井白石の「蝦夷志」からだといいます。「尻別川」は、「山・川」を意味するアイヌ語「シリ・ベツ」による名称ですが、話はここからさらにややこしくなります。尻別川のそばにある山の中でも、富士山に似た秀麗な山容の「羊蹄山」は、当地を知った和人にとってはきわめて印象深い山だったに違いありません。それで、尻別川のそばの山ということで、「羊蹄山」が「シリベツ山」と呼ばれ、それが「シリベシ山」と混同され、「後方羊蹄山」と書かれるようになりました。ところが、当地のアイヌの人たちがシリベツ山と呼んでいた山は、「羊蹄山」ではなくて、その隣にある現在の「尻別岳」だったのですから、話はますますややこしくなります。松浦武四郎は、このような混乱を承知の上で、「羊蹄山」は当島第一の霊山なので、この山こそ「後方羊蹄山」としたい、という気持ちを持ったようです。(『丁巳報志利辺津日誌』)このような心情は、松浦武四郎のはるか以前の学者たちによって累々と継承されてきた説でもあったのです。

アイヌ語の呼び名

「羊蹄山」と「尻別岳」について、別の観点から整理しておきましょう。江戸期の古地図を見ると、「羊蹄山」は「尻別岳」と記載されている例が目立ちます。(『羊蹄山登山史』高澤光雄)しかし、アイヌの人たちは、この二つの山を明確に区別して呼んでいました。「羊蹄山」は、「マッカリヌプリ」もしくは「マチネシリ(女である山)」、そして「尻別岳」は「ピンネシリ(男である山)」とされていました。山を「男」と「女」に区別して呼ぶのはアイヌ文化によく見られることですが、この二つの山容を眺めると、“なるほど”と納得するから不思議です。

明治政府の山名

明治政府は当初、『日本書紀』とその後の和人的心情に沿って、正式な名称として「後方羊蹄山」を使っていましたが、これについては、阿倍比羅夫伝説を国家伸張的観点から活用する意図もあってのこと、という指摘もあります。(高山亮二「伝説としての後方羊蹄」)ところが、明治20年代に入ると、道内各地の実測が進み、地理学的観点から「マッカリヌプリ」というアイヌ名が使われるようになります。その結果、公文書の中でも「後方羊蹄山」と「マッカリヌプリ」の間で競うかのように揺れ動きます。

「羊蹄山」の普及

さらに、1905(明治38)年には蝦夷富士登山会が正式に発足し活動を開始しますので、この時期には、「後方羊蹄山(しりべしやま・こうほうようていざん)」「マッカリヌプリ」「蝦夷富士」が併存することになります。しかし、山麓への入植が進み、後方羊蹄山を「シリベシ山」と読むのは難しいこと、きわめてよく似た音の「尻別岳」が傍らにあったことなどから、結局そのまま音で読んで、略して「ヨウテイザン(羊蹄山)」という名称が一般化したのです。ちなみに、後方があるのに前方が無いのはおかしいからと、尻別岳に「前方羊蹄」の名をつけたのは、虻田側から見ると尻別岳が前方にあるという理由からであったのでしょう。羊蹄山麓には、字名に「比羅岡」(喜茂別町)、「比羅夫」(倶知安町)、駅名に「比羅夫」(倶知安町)など、阿倍比羅夫にちなんだ名称も残されています。
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